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- 2010/02/15/Mon 22:39
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- 神様がプロデュース
Perfumeというユニットには、不思議なところが多々あります。
シリーズ「神様がプロデュース」では、Perfumeをあくまで特殊な一世代型アイドルであると規定して、日本のアイドルの歴史を辿ったり、各メンバーの個性や技能を検証したりしています。
前にも書いたとおり、このシリーズタイトル「神様がプロデュース」の意味は、
誰か力を持ったプロデューサーがコンセプトを立ち上げて、そのコンセプトにしたがってメンバーをオーディションで集めたり、抜擢人事(笑)などで作り上げた、今までのアイドルユニットではなく、
自分たちや、父兄、スクールの先生などで結成したユニットが、のちのち大きな事務所に所属し、なんとなく方向性は定められつつ、きっちりプロデュースされることもなく、下積みを経て何故かブレイクしたという、「漫才コンビ」や「アマチュアバンド」的な成立をしたアイドルユニット、
つまり「運命」と「縁」によって作り上げられた……けっして「血統正しきサラブレット」ではない、むしろ「野良」アイドルである、という意味です。
そういうアイドルであるために、例えば計算された完璧さや、矛盾なき整合性などは、望むべくもありません。特にライヴのMCにおいては、「ぐだぐだ、ゆるゆる」であり、しかしファンからは、そこをこそ愛されてきました。
今でも、ほら、事務所が打つキャンペーンや企画が、とてものことに完璧とは言いがたいほどに穴だらけですよね。(笑)
で、そんな不思議なアイドルであるPerfumeには、大きな特徴として、ある意味「保守性」があるとおもうんです。
音楽的には、マーティ・フリードマンや宇多丸師匠の言葉を待つまでもなく、アイドルポップスとして、革新的であり、そのような音楽性を保ったまま、クラブ音楽ではなくあくまでメジャーなポップスとして、チャートインするほどのポピュラリティをも獲得し、あくまでも「芸能界」のフィールドに居続けることの、その「新しさ」は、Perfumeの最大の魅力です。
しかし、そんな存在でありながら、なんと保守的で、古風でさえあることか!
その「保守性」の由って来る源は、やはり「西脇綾香」という若い女性のキャラクターからであるように思えてなりません。
この西脇綾香さん。非常に変わった女性です。(本人はそう言われるとスネるらしいのですが。なんとも可愛らしいことですね)
その人となりや言動を見る限り、不思議というか、相反する個性が入り交じっているかのように思えます。
性的には、非常に保守的で、古風であり、恋愛に関しても「アイドルにはタブー」との考えで、自らを律していたようです。
もし、交際があったにしても、抑制的で長続きしなかったのではないかと思えます。
友人との交際も、未成年であるあいだは、ストイックで閉鎖的だったようです。
仕事での立ち居振る舞いもまた然り。まるで「老舗旅館の若女将候補、ただいま修行中」、といった風情です。
Perfumeの他の二人、かしゆかものっちも、基本「あ~ちゃんのファン」なので、Perfumeとして居るときには、その保守的な空気に従っているかに見えます。(プライベートは別として)
では、彼女の保守性はどこから来たのでしょうか。
僕の知るところでは、まずは「西脇家」……特に母親の影響が絶大だったようです。母親自体が、かつて歌手(アイドル)を目指したとのことで、綾香さんがスクールに入ってからはその「イズム」を叩き込んだようです。
ただ、綾香さん自身の個性もまた強烈で、母親にコントロールされたというよりは、むしろ「奔放さを元気さに、野心や自我を活動のエネルギーに」変換させたというような感じだったのではないでしょうか。
(余談ですが、妹さんのちゃあぽんの方がむしろ優等生的で、より「イズム」の継承者であるような印象を受けます)
そして、アクターズスクール広島の指導も、また保守的であるらしく、彼女の後輩たちもまさに「紅白さん」的な折り目正しさを身につけているし、挨拶、感謝、いつも全力で、的な感じらしいのです。
おそらく、そうした環境によって、あの「Perfume・ism」が育まれたのではないでしょうか。
で。
そうした後天的な教育のタガを、今にも跳ね飛ばしそうな程、強烈な個性をも、西脇綾香という女性は裡に秘めています。
それに関しては、こちらの記事を参考にしていただきたく。
ともあれ。
西脇綾香さんのもつ「保守性」が良くも悪くも、Perfumeというユニットの方向性を決定づける大きなベクトルであると、僕には思えます。
- Date
- 2010/01/22/Fri 20:57
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- 神様がプロデュース
「夜の旅、その他の旅」
小学生にしてはかなり遅いといえる時間。
とあるコンビニに、二人の女の子達が、お喋りしながら入ってきました。
二人とも、ひょろりとした体格で、運動の後らしく、上気した頬が輝くように真っ赤でした。
その二人は、樫野有香さんと、大本彩乃さん。
小学校6年生です。
とにかく身体が火照って、喉が渇いて、我慢出来ませんでした。
二人は、おこづかいを手に、飲み物とゼリーなどを買い込みました。
外には、樫野さんのお母さんが、やや疲れた顔で、でもにこにこと車の運転席で待っています。携帯で、家に電話しているようです。
今日も、大本さんを駅まで送ってから帰るから、家にはこのくらいの時間に着く……そういう連絡なのでしょうか。
樫野さんが西脇綾香さんと一緒に組んでいる、スクール内のユニット「ぱふゅーむ」は、一人抜けてしまってちょっと困っていました。
スクール内では注目のユニットだったため、誰が後釜に座るのか、皆が見守っていたのです。
スクール生や父兄の中には、自分が入りたいと思うもの、自分たちが狙ってる子を取られまいとするもの、足を引っ張りたいが為に、ぱふゅーむが候補に挙げそうな子を先に取ってしまおうとするものがいて、スクールの中でうっかりその話をする事も出来ない状態でした。
他の子に比べて、そういう大人の事情を飲み込むのに聡い西脇さんは、先生や父兄たちとだけで候補者について話をし、樫野さんとは話すきっかけをなくしてしまっていました。
やがて、選ばれたのが、大本さんでした。
樫野さんは、実はショックでした。
なぜあたしには話してくれんかったん?
そして、西脇さんのうちで、新生ぱふゅーむの顔合わせを行った時ですら、樫野さんはまだ大本さんとは、西脇さんを通してしか話した事がありませんでした。
そういった顔合わせを行う辺りは、西脇さんの「オトナ」な部分ですが、何せ彼女は自分に内向的なところが全くないため、この二人の間の気詰まりな空気が、少し面倒になってしまいました。
そこで、「あたしお風呂入って来るけぇ、あんた達、この携帯の暗証番号を解いて見とって」と言い残して、樫野さんと大本さんを二人っきりにする荒療治を試みたと思われます。
大本さんは、大物というか、呑気な性格で、二人の間に会話が無くなっても全く意に介さず、言われた通り、普通に携帯をいじりはじめたそうです。
樫野さんは、何か話さなきゃ、と焦っていたらしい。無言の時間が、耐えられなかったのだそうです。気を使い、でも何を話していいか分からず、ぐったりしてしまいました。
今となっては笑い話ですが、のちのちまで(ネタ半分)「その件はちょっと根に持っとる」というほどでした。
そんな二人が仲良くなったのは、ふとしたきっかけによるものでした。
大本さんが福山から広島市内までレッスンに通ってきているので、帰りは高速バスか新幹線で、帰らなければなりません。
小学生一人で、毎日、広島駅まで電車に乗って行って、乗り換えなければならなかったのです。
見かねた樫野さんの親御さんが、車で樫野さんを迎えにきたついでに、大本さんを送って行く事にしたのでした。
樫野さんちの車で駅まで行き、バスか新幹線の時間まで一緒に待ちました。
「独特な雰囲気だった」と、樫野さんは当時を振り返ります。
レッスンやリハのあとのテンションで、小6の女の子二人が寒い夜、おしゃべりをする。
楽しくないわけがありません。
もう、何を話しても、何をしても楽しかったそうです。
写真集のインタビューで、のっちとの関係が深まったきっかけとして、この話をする樫野さん。
もう、二十歳になっても、まずはここを話さないではいられない程の、大きな思い出なのでしょう。
何となく分かるような気がします。
僕らも、中学生になって、クラブ帰りに友達とわいわい話しながら帰ったりした時間は、何だか大人になったような不思議な甘さを伴う、胸がうずくような思い出ですから。
ぼくは、「樫野さんと大本さん」が、「かっしーとのっち」になったのは、この「時間」が根っこであるような気がしてなりません。
西脇綾香さん、あーちゃんは二人にとって、それぞれ仰ぎ見るような特別な存在。
でもかっしーとのっちは、戦友であり、肩を並べて騒いだ「部活動の同期の仲間」のような存在なのかもしれません。
お互い、はじめから腹を割って話すタイプではないにせよ、徐々に深い付き合いになっているようで、去年のツアー中にも、またひとつ仲が深まり、固まったと言っていたようですから、かっしーとのっちの間も次の段階へと進んだのかもしれませんね。
実際、Perfumeのあーちゃんとして話す時、彼女はかしゆかとものっちとも、少しだけ距離を取って話す傾向があります。距離を取って、というか「あーちゃん」として、というか。
おそらく、普段は「綾ちゃん」なんでしょうけどね。
でも、かしゆかは、のっちに対しては、あーちゃんに対する時のような「遠慮」がありません。普段も仕事中もあまり変わらないのではないかとさえ思います。
それも、あの広島での夜の思い出があるからではないかと、僕は思うんです。
あれから、長い年月が経ちました。
あの寒い夜、白い息を吐いて、はしゃいでいた二人の少女。
どちらも内気で友達が少ない、だからこそ二人の間に見えない絆が生まれた。
一編の青春映画の、美しいワンシーン。
あの、夜の「旅」から、十年ばかり。二人は大人になり、幾度も旅をしてきました。
それを思うと、あのPTAムービー……バスの中のPerfumeご一行の映像での、のっちとかしゆかを見ると、何だか胸が痛くなるほど、切なく見えてきます。
どれだけ、二人は夜を越え、旅を重ねたのか。
そしてこれからも。
のっち「かしゆかは強いね。いろいろと一人で考えて、悩んで、頑張って。本当に強いと思うよ。だからもっと、弱い人間になりましょう。頼れよってことさ」
かしゆか「のっちへ。あんたの目が好きだ!!」
- Date
- 2010/01/06/Wed 22:32
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- 神様がプロデュース
「夢見る宝石」
さて、かしゆかこと、樫野有香さんの事を僕は「普通」と表現しましたが、これはあくまでもあーちゃん、のっちとの比較の上での事です。
普通イコール凡庸、という意味ではありません。
では、彼女を「Perfumeのかしゆか」として、輝かせているものとは一体なんでしょうか。
何度も繰り返すようですが、彼女は元々芸能界への憧れのなかった子で、お兄さんがスクールに入る時に一緒に入ってきたのでした。
ただ、事前に他の所であ~ちゃんと顔を合わせていた、というエピソードがありますね。
その後、いくつかのスクールの中から、アクターズを選ぶというあたり、お兄さんの選択かもしれませんが、ただの習い事というつもりでもなかったようです。
だからこそ、早く辞めたいみたいな気持ちになっていたのかもしれません。
その後、いくつかの選択を経てぱふゅーむの一員となっていった訳で、ご存知の通りの下積み、ブレイク、そして今、大人の女性として魅力を発揮しています。
かいつまんで辿ってみましたが、このストーリー(という言い方はちょっとアレですが)、僕には何だか懐かしく思えます。
あ~ちゃんが80年代型正統派アイドル歌手、のっちが90年代型ダンサー系アイドル歌手、だとすれば、かしゆかはそれよりももっと普遍的で、エイジレスな「シンデレラ型」アイドルなのではないでしょうか。
例えば。
自分は乗り気ではなかったけど、友人に頼まれて、オーディションを一緒に受けた◯◯さんが、なぜか審査員の目にとまり、合格してしまう。
最初は断ろうと思ったけど、事務所の人の熱意に押され、デビューする事にした。
歌やダンスのレッスンで厳しくしごかれ、持ち前の負けん気に火がついた。
歌唱力もダンスも、天才的な才能がある訳でもなく、ライバルに差を付けられる日々。
しかし、その努力と挫折の中、一生の友を得る事が出来た。共に頑張ろうと励まし合う。
さて、審査員の慧眼通り、彼女には技術や経験では得る事が出来ない、人を惹き付ける魅力があった。眠れるその魅力を開花させたのは、本人の努力、友情といろんな体験の中で得た感性、そして何より応援してくれたファンの笑顔であった。
ファンのみんなを笑顔にするために、今日も彼女は精一杯踊り、自分でも気が付かぬ不思議な魅力で観客をトリコにする……。
「歌もダンスもまだまだです。自分の顔もスタイルも好きじゃないし、自信なんかありません。でも、それでも良いと言って下さる皆さんのために、今日も一生懸命頑張りますので、よろしくお願いします!」
これこそが、アイドル物語でなくてなんでしょうか。
アイドルという、「時代の波打ち際のきらめき」を体現化する存在。
デビュー時のPerfumeは運悪く、沖へと連れ去ろうとする引き潮に掴まってしまいました。
「SPEED」に代表される歌とダンスのスキルを持った、プロフェッショナルの時代も、
「モーニング娘。」に代表される、物語を背負った素人が成長していく姿を見守る時代も、
盛りを過ぎようとしていたのです。
女の子がユニットで活動し、そろいの衣装で歌い踊る事、そのものが、古いとされていました。
アイドルとは、グラビアでセクシーさを、バラエティで可愛さと笑いを提供する時代。
または、アイドル女優なる存在が台頭し、雑誌モデルが同性の支持を得て、映画やドラマで注目される時代。
遅れてきた沖縄アクターズ、山田優の苦闘が、そのまま時代を表しています。
そうした中で、上京したPerfumeの三人の「センター(仮)」を担当したのは、Ms. Perfumeであるあーちゃんでも、広島アクターズのディーヴァのっちでもなく、かしゆかでした。
それは、おそらく当時のマイナーアイドルシーンを支えていた「萌え」を、かしゆかが一番備えていたからだと思います。
基礎技術や音楽性などよりも、けなげで可愛く、放っとけないと思わせる「何か」を、かしゆかは持っていたのです。
それは、もちろんあの「声」と、大人しそうで優等生的な言動、ちょっと言いにくいけどファンの男性からすれば優越感を持ちやすい技術の「足りなさ」、そしてファンサービスの熱心さと、裏腹な黒ゆか様発動……。
全てが「萌え」だったのでしょう。
そして、これからの方針を探っていたPerfumeにとっては、まずとっかかりはそれしかなかった……とはいいませんが、少なくとも大きな武器ではあった。
そのような、萌えが価値観の中心にあった「2000年代型歌うアイドルユニット」シーンにおける、Perfumeかしゆかとしての立ち位置から、現在のしっかり者で変わり者の「きれいなお姉さん(時々女王様)」キャラへの変遷は、語るまでもない事だと思います。
まとめると。
当時も今も、かしゆかの人気のベースには「萌え要素」、「劣等感を努力で跳ね返そうとするシンデレラガール」への共感、そして「友情の為に自分の殻を破って、尽くしてきた十年」への共感、があるのではないでしょうか。
加えて、今はその「内面の危うさ」さえも、彼女へのシンパシーになっているのです。
僕達は、あの変態丈でぱっつんのかしゆかの向こうに、〔黒のロンT、ジーンズで一人、ぽつんと佇む内気な小学生、樫野有香ちゃん〕を見て、
「頑張れ、もっと自信をもって、あと一歩踏み出したら、何かが変わるかもしれないよ」と応援しないではいられなくなるのです。
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- 2010/01/03/Sun 00:43
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「メランコリイの妙薬」
かしゆかは、あ~ちゃんとはまた別の意味で、取材などに対して多くを語る方だと思います。そして、要領よく、分かりやすく、鋭く語る女性です。
しかし、僕は以前から、彼女の「韜晦術」に気付いていました。
「韜晦」とはつまりカムフラージュ。
本質的な事を直接語らず、相手が答えて欲しそうな事を答えてその場を納めたり、逆に相手が驚くような事をわざと口にして惑わせたりする話法です。
特に後者の発言によって「小悪魔」などと言われますが、それも彼女の手の内の事です。
余談ですが、あの変態丈なる言い回しも、その種の煙幕だと思っています。
いわゆる韜晦癖のある人間は、ことさらに鬼面人を驚かすような事を言い、シニカルに見せかけ、その時々で発言を二転三転させたりします。
では、なぜ、そのようなヘキがあるのか、というと、カムフラージュであるからには「何かを守っている」のだと思います。
生物界で言うところの「警戒色」や「保護色」、「擬態」。
繊細で、その分脆弱な自我を守るために身につけた「殻」なのです。
話は、彼女の少女時代に戻ります。
前の記事で言ったように、やや自閉的だった彼女が、自分の中に確立していた価値観のタガを緩めて、アイドルユニットとして活動していく上で、あ~ちゃんや水野(MIKIKO)先生との出会いが大きかったのは確かです。
誰しもこの時期は、友人や指導者からの影響によって大きく変わっていくものです。それは間違いありません。
しかし、僕は、彼女が語るこれらの事以外に、何か語られないままの大きな出来事があったのではないか、と考えています。
いくら影響を受けたとはいえ、そもそも歌手などになろうと思っていなかった人間が、広島インディーズデビュー、上京、全国インディーズデビュー、メジャーデビューのどの時点でも、(迷いはあったでしょうが)とにかく離脱する事無く前進し続けたのには、それ以前にもっと大きな「転機」、いや「回心」とも言えるような劇的な何かがあったはずだ、と思えてなりません。
しかも、その間一度も歌を好きにならないまま、です。
もうひとつ疑問があります。
ぱふゅーむのかっしー、またはかしゆかとしての、彼女の担当キャラは「ロリ路線」でした。
かつて、おそらく彼女が一番苦手としていたであろう、「幼い可愛さ」を押し出さなければならないという役回りです。
これをこなすためには、ある「覚悟」が必要だったはずです。
人一倍強い「自我」を、覆い隠す覚悟が。
なぜ、そこまでして、彼女は踏ん張っていたのか。
それらの事について、いまだに樫野有香さんは語ろうとしません。
今の彼女は、Perfumeの「かしゆか」を演じている意識は無いだろう、と言いました。
しかし、ある時期までは、「演じて」いたのだろうと思います。いわゆる「キャラ」を。
パッツンにした時点か、または「コンピューター・シティ」の頃か、しだいに地を出していったのかは分かりませんが、あ~ちゃんの言葉によると、「かしゆかは上京して、ほんとに変わった」との事ですから、変化が始まったのはその辺りであろう、とは推測出来ます。
おそらく、「自分をより楽にしていった」脱皮にも似た変化だったのでしょうね。
大人っぽいファッションや、音楽への関心の変化など、こういってはなんですが極めて「正常な」成長を遂げたのだ、と思います。十代の女の子として。
かつての記事でも取り上げたように、ブレイク後の彼女に、ある種の内面的な危機が訪れたようです。とくにGAMEツアーの頃です。
Perfumeの中での、自分の存在意義について、悩んでいたのだと言います。
しかし、あえて突き放すような言い方をすれば、「今さら」な感じもします。昨日今日組んだユニットではないのですから。
それは、おそらく「今までのキャラ」という立ち位置を捨てるための、通過儀礼のようなものだったのではないでしょうか。
で、より自然な自分でいられる「新キャラ」を確立していった。それが、ブレイク後のかしゆかの変化だったのだと思います。
しかし、そうした変化以前の彼女を支えていたのはなんだったのか、それは未だに彼女の韜晦のかなたです。
真面目さ、あ~ちゃんへの友情、のっちへの戦友意識、責任感、ファン思いであること。
それはもちろんそうなんですが、ただそれだけではないはずです。
そもそも、なんで「上京」という決定的な道を選んだのか。
それは、いつか彼女自身の口から、「本音で」語られるのを待つしかありませんが、結果として、彼女自身の成長の、大きなきっかけであったであろう事は、想像に難くありません。
それは、彼女自身を閉じ込めていた、自意識の檻からの開放……憂鬱への特効薬だったのでは無いでしょうか。
- Date
- 2009/11/11/Wed 19:40
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「竜が目覚めるとき」
のっち……大本彩乃の中には、一匹の竜が眠っています。
その竜の名を、「表現者」といいます。
西脇綾香の中に、「芸能者という名の虎」がいるのと同様に、その竜は大本彩乃の、表現衝動の源です。
では、その「表現者」とは何なのか。
「芸能者」とはどう違うのか。
僕の個人的な考えを、これから綴ってみたいと思います。
ダンスもさることながら、のっちは幼い頃から歌手を目指し、スクールでは「ディーヴァ」と呼ばれた存在でした。
その歌声は、はっきりした発音、真っ直ぐによく伸びる「少年」のような声です。
もちろん、今のPerfumeの音楽と振り付けを愛して止まない彼女ですが、それはそれとして、心のどこかで、かつてのようにお腹から声を出し、「絶唱」してみたいと思ってはいるのでしょう。
あの、SPEEDさんと共演した「ミュージックフェア」で、ヒロの最高音のパートを歌っているのっちを見て、そう思ったのです。
彼女の事ですから、だからといって不満に思ったり、折り合いがついてなかったり、という事は、ないと思います。
むしろ、今のPerfumeの音楽とダンスで思いっきり歌えと言われても、それは嫌でしょうね。
音楽に合ってない歌、ダンスも中途半端で、どっちも気持よく出来ないでしょうから。
で、僕は思ったんですが。
なぜ、折り合いがつくのだろう、と。
おそらく、「自分の表現欲を満たすのには、強いて歌でなくてもいいから」ではないかと思いました。
ライヴなどで、突然のっちが、何かのメーターを振り切って、雄叫びを挙げたり、客を煽ったりする事がありますよね。
僕は勝手に「ロックのっち」と呼んでるのですが、福岡の公開ラジオ収録でも、急に降臨した事があります。
彼女は、熱狂する客の前などで、突然自分の殻を破って、吠えたくなるのだろうと。
猛り立つ衝動で、血が燃え上がるんだろう、と。
そう思うんです。
それは、パフォーマンス中の「覚醒」「陶酔」とは、また違う一面です。
別に怒っている訳ではないけど、「血が燃える」としか言いようがない。
僕は、それは、えーっと「ロック魂」? みたいなものだと思っています。僕自身、なぜロックが好きかと言うと、聴いていて身体が熱くなり、なにか「燃えるものがあるから」、なんですよね。
ウオオオオオォォォォォオををを!!! ってな感じで、吠えたくなるんです。吠えませんけどね。
さらに妄想を進めると、のっちは、無意識のるつぼの中に、幼少期の満たされなさ、内気ゆえの不満の蓄積、Perfumeの不遇時代の怒りと悔しさなど、そしてもっと「原始的な衝動」が溜まりに溜まっているんではなかろうか。
それらがごった煮のごとく、ぐつぐつと煮えたぎっていて、無意識の闇に息づいているのではないだろうか。
それが、僕の言う「竜=ドラゴン」です。
その衝動があるからこそ、のっちは人前で何かを表現し、大きなエネルギーを吐き出しているのではないでしょうか。
歌であれ、ダンスであれ、雄叫びであれ。
もし、フリーで滅茶苦茶に踊れ、とか、何でも好きな歌を歌え、という事になれば、きっと自分の限界も気にせずに、アクセルべた踏みでぶっ飛ばすに違いありません。
あたしのダンスを観ろ! と。
あたしの歌を聴け! と。
激しい思いをぶつけるでしょう。
そうした無意識のポテンシャルを持ちながら、あえて計算されたパフォーマンスを大いなる快感とともに演じているのっち……。
ステージで間近に観たものが、圧倒されるのも当然ではないでしょうか。
彼女の背後に、見えない「荒ぶる竜」が火を吐きながら、ステージ上の虎……あ~ちゃんの背後の「芸能者」と火花を散らしているのですから。
最後に、「表現者」とは。
己の魂の奥に潜む何か、心の目に映る「美」や天上から降りてくる「音」、それらを自分の持てる限りの手段で形にしていく者です。
表現者が伝える相手(そして闘う相手)は、「他者」です。
が、極端に言えば、自分さえも「究極の他者として闘う」のが、表現者の本質ではないでしょうか。
平たく言えば「ライバルは昨日の自分」、のっちがそんな事を言ってましたよね。冗談めかしてましたが、この言葉に感銘を受けたんでしょう。
そう、本質的には、「表現者」とは自分一人で成立するものなのです。生前のゴッホのように。
ところが、「芸能者」には、観客が不可欠です。観客こそが生きる糧、エネルギーの源です。
観客の感動や喝采、笑いや涙を食べて生きる、それが芸能者なのですから。
のっちの魂の奥深くには、一匹の竜が眠っています。
次にその竜が目覚め、火を吐くのは、いつでしょうか。