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「edge」





 居酒屋の喧騒の中に、悲鳴が響き渡った。
 奥まった席、周りを腰高な羽目板で囲われた一室から、店員の女性がよろよろと出てきた。
「警察、け、警察を呼んでください!」

 機動捜査隊が仕切る現場は、鑑識課員などが入り乱れ、雑然としていた。
 その部屋には、胸を何かで刺されたらしき若い男性の遺体が、掘りごたつを模したテーブルの横に倒れていた。
 外の通路に、彼の連れらしき若い女がいて、その手は真っ赤に染まっている。鑑識課員はその手の血液と、爪の間の異物を採取していた。
 どうやら、泥酔しているらしいその女は、もつれる舌でなにか言いながら、泣きじゃくっていた。

 その喧騒の、外にいるのが警視庁一課の刑事たちである。彼らは、そのとき店内にいた全員から、事情聴取していた。
 その一課の刑事の一人、速際警部補が、部下の松田とぼそぼそ話している。
「ガイシャとあの女、所持していた免許証によると内田慶太と山下祐希ですね、あの二人はよくカップルでこの店に来ていたらしいんです。店員が、よく口論しているのを見かけていたそうで」
「まあ、現場の鑑識結果を見ないと分からんが、おそらくあの女がクロだろうな。あの返り血といい、間違いなかろうが……」と言って速際が禿げ上がった頭を掻いた。
「凶器ですよね、問題は。深さは分かりませんが、出血量から見て心臓か大動脈に達する傷で、アイスピックか千枚通しのような細いものだということです」
「それが見当たらんのだよな、現場に。あんな酔っ払った女が、どうやって凶器を隠したのか……。あの店員は何か見てなかったのか?」
「あ、現場を見て警察を呼ばせた女性ですね、いや何も気がつかなかったと言っています」
「もしかしたら、他の誰かが素早く刺して、逃走したのかもしれん。女が泥酔していたんだから、可能性はある」
「いや、それはどうでしょう、生え際さん」女の声がした。
「なに? あ、あんた、占い師のカシノ……」速際警部補は振り返って、目を丸くした。
「カシノユカです。お久しぶりです」
「私は、は・や・ぎ・わ、だ。生え際じゃない」
「それよりあなたがどうしてここへ? 関係者ですか?」松田が素早く割り込んだ。
「まあ、お客がここの従業員にいまして。それよりさっきの話ですが」
「は?」
「第三者が犯人、というおはなしでしたね。もし誰かが刺したとして、その誰かは返り血は浴びなかったんですか? それと、そもそもなぜここに現れたんでしょう。後をつけてきた、としたら、大きな疑問がわきます」
「……」
「なぜその犯人は、ここで殺すことにしたんでしょう。さっきおっしゃったような凶器でしたら、前もって用意していたはずですが、だとしたら、最初から危害を加えるつもりで後をつけていた、ということになります。
 だったら何も、こんな目撃者が多くて、邪魔が入ったり、逃げられなくなるかもしれないこんな場所ではなく、外の暗がりか何かで刺さなかったんでしょう。
 そうすれば、通り魔の可能性も出てきて、自分が安全になるのに」
「そんなことは言われなくても分かってる。だが、かっとしてとっさに犯行に及んだのかもしれない」
「さし傷がナイフによるものなら、または鈍器による犯行なら、それも分かります。しかし、細くて鋭い得物なんて、持ち歩かないですよ」
 そこへ、他の課員がやってきて言った。
「この席を担当していたあの店員によると、9時半には、ガイシャは生きていたそうです、オーダーをきいたときに、飲み放題の時間内かどうか確かめるため、腕時計を見た、と言っています。そして発見は、そのオーダーを持っていったとき、つまりおおよそ十分後。犯行時刻ははこの間ですが、その間に店を出たものはいないそうです」
 ほらね、といった顔で、カシノユカが速際の顔を見た。

「だとすると、やはりあの女がクロってことか」
「それはわかりません」ユカが首をかしげた。
 なぜこの占い師が会話に加わっているのか、苦々しく思っている松田が、ユカを促した。
「ともかく、部外者は、あちらに……」
「ああ、凶器のことですね」ユカは、松田を無視してパンと手を打った。「現場に見当たらないのはなぜか、ということでしょう?」
「まあな」なぜか、速際はユカの話を聞きたがっているようだった。
「それよりも、ここでもやっぱりさっきの疑問のほうが問題です。
 なぜ、こんなところで犯行を犯したのか。二人で連れ立って来て、部屋の中で刺す。確信犯というか、捕まっても構わないつもりだったのか、それとも泥酔して思わずやってしまったのか」
「うん」
 ユカは首を振って、「いいえ、どちらも矛盾します。確信犯ならば、犯行現場をここに選んだことにもなにか理由があったのかもしれません。でもだとしたら、なぜ苦労してわざわざ凶器を消して見せる必要があります? 捕まって構わないはずなら、です。
 泥酔して刺したのだとしたら、まあ百歩譲ってどうにか凶器を隠したのかもしれません。でも、だったらそもそもなぜ、そんな危ないものを持ってきてたんです? 普段からもちあるていた? いや、それは考えにくいです」
「そのへんは、さっきの第三者説と同じ矛盾が生じる、ってわけかね。でもそんなに論理的に割り切れるとは限らんからね、実際の事件は」
「そうかも知れませんが、私は納得いきません。性分なんです」じっと考え込みながら、ユカは言った。


「edge-extended mix-」へつづく……






 

「シークレット・シークレット」



 宴席は、主人公にふさわしく華やかだった。
 彩音は気の抜けたシャンパンをすすりながら、デザートの「木苺のオムレット」を解体していた。
 あたしは、友人その一か、いや二かな、などと考えながら。

 出会いは小学校の時だった。
 彩音が小さな頃から通っていたバレエスクールに、あの子はやってきた。
 優しそうな母親に伴われて、入学手続きに来たのだった。
 女の子らしいフワフワしたワンピース、ちょっとお転婆なくりくりパーマのロングヘア。
 造作の大きい目鼻立ちが、舞台映えしそうだった。
 それが紗香だった。

 彼女は生まれついての社交家で、あっという間にみんなと友だちになった。
 どこにいても注目され、人目を引き、その場の雰囲気を支配した。
 でも、そういったタイプの子にありがちな傲慢さは、かけらもなかった。むしろ、少し大人びた考え方をし、いつでも周りの人に気を配っていた。
 彩音とは正反対のタイプだった。
 彩音は、マイペースで、自分が楽しければ他のことはあまり気にならない性格で、知らない人と、あえて友達になる必要を、感じていなかった。
 そんな彩音が、ある日、紗香の別の一面を見た。そしてそれから、彼女のことが急に気になり始めた。
 レッスンで、紗香がどうしてもうまくできなかった時の事。
 通りかかった彩音は、見てしまったのだった。
 彼女はひとり居残って、歯を食いしばり、鏡を睨みつけながら、何度も苦手な動きを自主練習していた。
 悔し涙をポロポロ落としながら。
 その目は、燃え上がるようだった。

「すげえ……。さっちゃん、頑張り屋なんだ」彩音は息をのんだ。「かっこいい……」
 彩音は、普段はフワフワした紗香の、隠れた一面を見て、憧れを抱いたのだった。

 それから、何となく紗香の近くに行き、友だちになった。紗香は紗香で、実力的に抜きん出た彩音のことが気になっていたらしかった。

 中学に上がったのをきっかけに、彩音はバレエをやめた。そして今度はジャズダンスを習い始めた。
 紗香は、そんな彼女のことが理解出来ない様だった。
「彩音っち、もったいないよ、せっかくコンクールにも入賞したのに」
「うん、でもあれでね、なんかもういいかなって。今度は違うダンスがしたくなってさ」

 本当のことは、言えなかった。

 バレエスクールで、紗香はもう一人親しい友人が出来たらしい。彩音はそう、人づてに聞いた。
 手足がスラっとしたお人形のように可愛い子で、内気で人見知りだったその子と、すぐに仲良くなったらしかった。
 彩音は、胸の奥がちりちりと痛むのを覚えた。それは嫉妬だった。

 彩音の「本当のこと」。
 彼女は、小学校高学年くらいから、クラスの男子が急に動物臭くなった気がして、彼らを嫌悪し始めた。
 と同時に、あまり口は聞かないけど、同級生のかわいい女の子や、バレエスクールの美少女たちを見ると、胸がドキドキし、直視できなくなっていた。
 そんな時、親しくなった紗香に、彼女は恋をしていたのだった。
 華やかで明るい、太陽みたいな存在。その裏の、眼を見張るばかりのガッツ。
 こういう子が、例えば漫画の主人公みたいになっていくんだろう、と思った。
 決め手は、あの涙だった。あの涙を見てしまった以上、彼女を放って置けるはずはなかった。
 とはいえ、おかしな素振りを見せるわけにはいかない。スクールの子に「変態」だなんて言われたら、死んでしまう。
 彩音は、一緒のスクールに通うのが苦しくなってしまった。
 ちょっと離れてみたらいいのかも、と。

 そしたら、これだ。ヤキモチなんか妬いて。あたしはバカか。

 くだんの新しい友だちとは、紗香の家で会うことになった。
 お互い内気同士だったが、そんなにいつまでも引きずるタイプじゃない彩音は、平常心でその友人里香と話すことが出来た。
 うん、たしかに可愛い。男の子みたいなあたしと、真逆だ。

 それから、月日を経るうち、里香とも親友になった。彼女も負けず嫌いで、その辺りが紗香と気が合うのかもしれない、と思った。
 生来おっとりした彩音は、ダンスとなるとスイッチが入って才能を発揮する天才肌だったので、そういったハングリーさに欠ける一面があった。
 どこか、彼女たちに劣等感を抱いていた。

 やがて。ついに恐れていたことがやってきた。
 紗香に、彼氏ができたのである。
 彩音は部屋に閉じこもり、泣いた。

 どれほど泣いても、この秘密を打ち明ける相手はいなかった。誰にも、絶対に知られたくなかった。

 里香と電話で話しているときに、こんなことを言ってみた。
「友情と恋愛だったら、どっちとる?」
「友情だよ、もちろん。さっちゃんとか彩音っちの方が、大事に決まってる」といってすぐ「きゃー。恥ずかしいこと言わせんな!」と照れた。
「でもさ、友達を選んだら、好きな人と付き合えないとしたら?」
「だったら、彩音っちに彼氏になってもらうよ」何も知らない里香は、そう言った。

 普通はさ、友達と同じ人を好きになって……みたいなときに、恋愛と友情を選択するんだろうけど。
 アタシの場合は、自分の恋愛感情を優先させたら、恋も友情もいっぺんに失ってしまう。だって、どっちも対象は、同じさっちゃんなんだもん。

 じっと自分の気持を押し殺し、彩音は紗香を祝福した。

 数年後、紗香は恋人と、結婚することになった。初めて交際した人と、まっすぐにゴールインするあたり、紗香らしかった。
 あのうなじ。絹のような肌。小さな肘。笑うと上がる、口角のあの角度。頬のえくぼ。きれいな足首。
 気取られぬようひそかに見てきた、それらを、あの壇上の男にかっ拐われる。

 あー! ムカツク! 

 宴席で一人、皿の上の「マスカルポーネチーズとショコラのタルト」を、デザートフォークで完膚なきまでにやっつけながら、彩音はつぶやいた。




 二次会は遠慮することにして、帰り支度をしていると、里香が近づいてきた。
「飲みに行こうよ。あたしたちだけで」ぽん、と肩に手を置いて、「愚痴聞いてあげるよ。おもいっきり泣けばいいよ」何もかも知ってる、という顔で、里香が言った。
 彩音は、呆然と、ただただ呆然と、立ち尽くすのだった。





「願い」



 一九七〇年代のある年、春。

 少年は教室の隅で、その転校生に釘付けになった。
 色白の可愛い丸顔、まつげは濃く長く、目尻は切れ長で、泣きぼくろがあった。
 中学一年の間、不登校を繰り返し、続けていた彼だったが、さすがに進級第一日目は出席していたのである。
 始業式を終えたあと、クラスに戻ってさあ帰ろうという雰囲気の中、ごく普通のおとなしい少女が転校生として紹介された。
 ただし、少年にだけは、彼女が絶世の美少女に見えたのだった。
 現金なことに、彼はそれから、病欠を除き一日も学校を休まなくなった。

 東京から帰ってきて、空虚感は埋められなかった。何をしても演じてるという意識が離れなかった。
 ちょうど中学生ともなると、それでなくとも自意識の悪魔に苛まれ、自分が嫌でならなくなるものだ。
 親しい友人も出来たのだが、大勢と仲良くする、ということが苦手だった。

 ところが、中二からは生活が一変した。
 嫌でならなかった部活も辞め、学校へ来る励みもできた。
 上手いことに、進級時のクラス替えのあと、少年のクラスは男子も女子もみんな仲良く明るい雰囲気だった。
 学校へ行く事に抵抗がなくなっていったのである。

 いい事はまだあった。
 両親は共働きだったのだが、それがうまくいき始め、風呂なし二間の木造アパートから、3DKの新築風呂付きアパートへと引っ越せたのだった。
 少年は、自分の部屋を貰うことが出来た。それが、彼の精神衛生に大変良かった。
 思春期の少年は、一人部屋があるとないとでは大違いなのだった。
 もう一つ良かったのは、当時には贅沢だった、ステレオセットを貰えたことだ。
 家にあったボロボロのレコードプレイヤーやラジカセで、しょっちゅう音楽を聴いている姿が、不憫だったのかもしれない。
 もしくは、例の件以来、親が何かと甘かったのかもしれない。

 そんなこんなで、元気に中学生活をエンジョイしつつも、ただでさえ人に対して臆病だった少年は、片思いを打ち明けることができなかった。いや、満足にしゃべることすら。
 彼女は、今でいうオタク的なグループにいて、そのグループが少女漫画や少年漫画などを模写したりする同人誌を出し始めた。
 男子より女子と話すほうが気楽だった少年は、そのグループにちゃっかり入り、といって絵を描くでもなく、ただお喋りしたり、コピーや製本を手伝ったりした。
 そして、家に帰ってから、自室で彼女の写真などを見ながら悶々とするのだった。
 不思議に、性的な妄想の対象にはならなかった。何か、神聖なものだ、という気がしていた。

 2年間は、あっという間に過ぎた。
 少年はついに、打ち明けることができないまま、卒業式を迎えた。
 当日、教室へ入って、彼女の姿がないことに気がついた。
 担任が言うには、風邪で高熱を出したらしい。
 欠席者は、彼女だけだった。

 彼は、何者かに背中を押されているような気がした。

 家に帰ると、小遣いをポケットにねじ込み、飛び出した。
 卒業証書は、担任が届けるとの話だったから、迷っている時間の余裕はなかった。
 担任や友人の見舞いより先に、彼女の家に行かなければ。

 途中の花屋で、控えめな量の、カーネーションの花束を買った。

 彼女の家は当然知っていたが、訪ねるのは初めてだった。
 心臓の在り処が間違ってる気がする。やけに喉元で脈打ち、跳ね回っていた。
 冷や汗をかきながら、呼び鈴を鳴らした。

 パジャマ姿の彼女が玄関にやってきた。
「あ……」と言って怪訝な顔で頷いた。
「これ。卒業式、出られなかったから」とぶっきらぼうに言い、花束を押し付けた。
「ありがとう」と言って受け取る。おそらく少年の気持ちはとうに勘づかれていたのだろう、意外そうな顔はしなかった。少し、笑ってくれた。すまなそうに。
 言うことが無くなった彼は、「じゃ」とつぶやいて帰っていった。

 少年と彼女は、高校は別々だったが、例のサークルを通じて時折会うことがあった。
 でも、あの花束を渡したことで、憑き物が落ちたように気持ちがすっきりし、平静に話せた。
 高校で演劇部に入り、他校の女子と広く知り合ったのも、結果的に良かったのだと思えた。

 かつて少年だった彼は、今でもその頃のことを思い出すと、胸が熱くなり、耳が赤くなる。
 あんな恥ずかしいことは、なかった。でも、なぜかあの時は、勇気が出てきたのだ。
 あの、卒業式の日、いつもの席に彼女がいないのに、気づいた時。 
 風邪で寝込んでいるのを知った時。
 恥ずかしがってる場合じゃない、と、誰かが耳打ちしたのだ。

 そのあたって砕けろ的蛮勇は、彼の人生で折りにふれ顔を出し、よくも悪くも砕け散ってきた。
 だが、彼の殻を壊したのは、あの彼女の存在だったのだ、と今でも時々、彼は懐かしく思い返すのだった。






 




「願い~Instrumental~」





 一九七〇年代半ば頃、六月。
 東京都、文京区千駄木。
 安アパートの、白ペンキの剥げた階段を降りてすぐの所に、紫陽花が一群咲いていた。
 その紫陽花を、少年が一人、じっと眺めている。
 彼は、花を眺めながら、手紙を待っているのだ。小学校に編入出来るとの知らせが来るのを、待ちわびているのだった。

 彼がこのアパートに越してきたのは半月前だ。
 九州から、母親と妹と三人で、新幹線に乗って上京したのだった。

 「母さんね、この家を出ようと思う。恵子はまだ分からんから、連れて行く。あんたはどうする?」
 彼が学校から帰って来たら、出し抜けに、母親がそう言った。目付きがおかしかった。
 どうするって言われても。とても、俺は行かないとは、言える雰囲気ではない。
 彼は、何となく頷いた。母親が抱きしめてきた。勘弁して欲しかった。なんだかドラマみたいだ、と思った。
 妹には、新幹線に乗りに行くと言いくるめ、危なっかしい三人組は、何の展望もなく東京へと逃げて行ったのであった。

 幼い妹や、小五の彼には、なぜ母親が家出したのかは、全く分からなかった。ただ、父親が変人で一家が苦労していたことは、何となく分かっていた。定職についていない、酒飲みの親父。崖の下に作ったぼろ家の風呂には、常になめくじが這い回っていた。

 妹は保育所へ、彼は小学校へ。編入するまでの期間、彼は大事に妹の面倒を見た。
 ダイヤブロックで、小さなロボットを作り、それぞれに名前をつけて、毎日おはなしをしてあげた。
 そうすることで、彼自身の不安を紛らわしていたのかもしれない。一時の現実逃避として。

 妹の保育所入りが先だった。
 母親は、朝から出掛け、夕方、何もない部屋でぽつんと待つ少年のもとへ、妹の手を引き引き帰ってくる。
 そのうち、漫画を読んだことがなかった、読書好きの少年に、一冊の漫画雑誌が与えられた。
 彼はその雑誌を、ぼろぼろになるまで読んだ。

 やがて、地元の小学校へ、編入できた。
 そこは、馴染めない場所だった。言葉も違うし、グラウンドはアスファルトだし。

 彼は自分を押し殺して、周囲に溶け込むことが得意になった。
 注意深く周りを見回し、変な行動を取らないように、気を配った。
 授業など、全く頭に入らなかった。

 とはいえ、友人らしきものもでき、自然教室? みたいなものにも参加した。

 家の中も少しづつ明るくなってきた。子供にはそう見えた。
 夕食も、キャベツと魚肉ソーセージではなく、カレーと福神漬へと昇格した。
 生活の危うさなど、子供たちは全く感じていなかった。

 ある夜。
 母親が、眠れないまま輾転反側していた。
 生活費が尽き、仕事も首になったのだった。
 絶望。とてもこの東京で生き延びることが出来るとは、思えなかった。
 母親は、泣きながらガス栓を開けた。
 シューシューと音がした。
 その時母親の耳に、それまでは聞こえなかった、子供たちの寝息が聞こえた。
 キュッとガス栓を閉める。
 手が震えていた。
 声を殺して、母親は泣き崩れた。

 しばらくして、父親が迎えに来た。
 母親が電話をかけ、その長距離電話の「小銭の落ちる音の回数」で、居所を割り出したのだという。
 話し合いの後、家出した三人は、九州へ帰ることになった。
 再び、いきなりの転校。クラスメートはきょとんとしていた。
 ついに馴染めなかった学校を、少年はあとにした。

 アパートの窓を終夜照らしていた、蟹料理屋のネオンともお別れだった。
 少年の心の中は、しんと静まり返り、現実から遊離したままだった。
 帰る前に、上野動物園に寄って行こうと言われても、少しも嬉しくなかった。
 家出によって子どもらしい生活が破壊され、大人の事情を見せつけられた。
 両親への尊敬の念など、湧きはしない。
 この、奇妙な一ヵ月半を、まるで物見遊山だったかのように、動物園見物で誤魔化そうとしている。
 彼に語彙があれば、そう思ったことだろう。

 帰りの新幹線は、不安がない代わりに感激もなかった。
 ただただ、うんざりしていた。

 その後彼は、九州に帰り、と言っても外聞を気にした親たちによって、別の区へと居を変え、やがて中学へと進学した。
 その頃、ご丁寧に父親から例のガス栓のことを聞かされ、少年は不登校を繰り返した。



 少年は、その後、何度も思い返した。
 あの時、僕は行かないと言ったら、どうなっていただろうか。
 あの時、母親の、ガス栓を締める決断が少し遅れていたら。
 あの時、母親が電話をかけなかったら。

 ほんの少しのタイミングで、事態は大きく変わっていただろう。
 大して裕福でも幸福でもない人生を送りながら、それでもまだマシな方かもしれない、と、かつての少年は、時折考えるのだった。










「ドリーム・ファイター」



 いつもの路地裏に、またあの野良猫が来ていた。
 近所に餌をやっている人がいるらしく、人馴れしている。
 有香がゆっくりと近づいても、逃げる素振りを見せなかった。
 有香は草むらにいるその猫の前にしゃがみ、目を合わせた。
 猫は逃げず、じっと見返す。
 有香は、ゆっくりと目を閉じ、パッと開いてみせた。
 猫も、同じように、ゆっくりと瞬きした。
 これは、猫のあいさつなのである。
 何度か、パチクリを繰り返し、そっと指を付き出してみる。
 猫は恐れげもなく、クンクンと指の匂いを嗅いだ。

 野良猫を無事にバスケットに入れ、いつもの獣医院に行った。
 病気を持ってないかどうか、検査してもらい、必要な予防注射などの処置をしてもらうためだ。
 もちろん、ノミ取りも含めて、である。

 有香は、いったん家に帰った。
 職場へ戻る前に、することがあった。
 マンションの部屋へと入ったら、いつものマンチカンが出迎えに来てくれた。
 この猫は、多分最近まで人に飼われていたのだろう。野良のわりにはよく太り、血統書こそ無いものの、おそらくは純血種だと思われた。
 マンションの中は、十匹以上の猫が、好き勝手なことをしていた。壁の片側に積み上げたケージの中にも、それぞれ猫がいて、何匹かは警戒したように、有香をじっと見ていた。
 これらは、さっきのようにして保護した野良や、殺処分になりかけたのを貰い受けてきた猫たちであった。
 有香は水や餌、トイレなどの始末をし、猫たちに話しかけて、かわいがった。
 甘える猫も、無愛想な猫も、気の荒い猫も、同じように。

 それから、ようやく、自分の職場へと戻った。
「猫カフェ にゃふにゃふ」と書かれた木の看板の、端っこに猫の足型と爪を研いだ跡を付けてある。
 カフェは、絨毯じきで暖かい色使いのコーディネーションであった。
 猫の遊び木や梯子、箱や土鍋などが置いてある中に、数席の椅子とテーブルが置かれていた。
 女性スタッフの一人、大本あやのが、お帰りなさい、と声をかけてきた。
「遅くなってすみませんでした。異状はありませんでした?」
「はい、大丈夫です。まあ、デュークとブン太は、いつものようにケンカしてましたけど」
「あの二匹の趣味ね。遊びの範囲なら、仕方ないですね。で、小菅さんはお見えになった?」
「いえまだです。連絡もありません」
「そう」
「無事貰われるといいんですけどね、ピーチが」
「まだ分かりません。面接次第ですね」

 ここは、ただの猫カフェではなかった。
 さっき有香の自室にいたような、野良猫、捨てられた猫、保健所にいる殺処分を待つばかりの猫だけを保護し、自室で様子を見た後、大丈夫そうな猫をカフェで放し飼いにしているのだった。
 有香が猫カフェを開いたのには、目的があった。
 大好きな猫たちを可愛がり、面倒をみるためだけでなく。
 冬に凍死したり、餓死したり、車に惹かれたり、処分されたり。そんな猫を、一匹でも多く、可愛がってもらえる飼い主のもとへ、引きとってもらうこと。その助けになりたい、という一心からであった。
 まず、保護し、健康になってもらい、人に慣れてもらう。その手助けをしているつもりなのである。
 ただ……性質が荒く、どうしても飼い猫にはなれない猫もいた。その場合には、やむを得ず避妊手術を施し、放すこともあった。
 それをした日にはいつも、涙が止まらず、眠れぬ一夜を過ごした。数日、食事も喉を通らなかった。

 一時間半ほどして、小菅という女子短大生が、母親を連れてきた。
 ……実家住まいか。有香は少し眉をひそめた。
「こんにちは、『にゃふにゃふ』店長の梶野といいます。いつもお嬢さまにご来店いただきまして、ありがとうございます」
「ええ。……おいくらですか?」
「は?」
「猫ですよ」と、汚いものの事でも言うように言った。「猫、一匹おいくらなんですか」
「いえ、あの、お嬢さんにはお話ししたと思いますが、お引き取りいただく前に、私の方で面接させていただきます」
「あら……」呆れたような顔をした。「ずいぶん大げさなんですね」
 有香は聞こえなかったようなふりをして、「で、私どもが、猫をお任せしてもいい、と判断してから、お引渡しします。ちょっと失礼な事も言うと思います。ただ、その代わりといいますか、猫のお代金はいただきませんので」
「ああ、タダなのね。じゃ、いいわ」
 横で、娘のほうが、恥ずかしそうな顔をしていた。
「うちの猫ですが、まずはじめにお断りしますね。猫は死にます」有香は無表情だった。「生き物ですから、必ず人間より先に死ぬと思っていてください。大丈夫ですか?」
「大丈夫です!」娘がむっとしたように言った。「でもそんな事言わなくたって」
「言っておかなければいけないんです。中には、後で猫が死んだ、というクレームをつける方もいらっしゃいますから」
「……」
「それと、猫は病気をします。一応予防注射などは済ませていますが、風邪を引いたり、お腹に毛玉がたまったり、いろんな病気をするんです。その際には、ちゃんと病院へ連れていってもらえますか?」
「はい」娘が頷く。母親の方は、興味なさそうに聞いていた。
「動物病院は、人間の病院と違って、健康保険はききません。場合によってはかなりの出費となります。大丈夫ですか」
「おいくら位ですか?」母親が訊いた。
「時には数十万円になることもあります」
「!」母親が、驚いた顔で、口を噤む。
「それから、いったんお引き取り頂いた猫は、原則としてうちの店でまた引き取ったりできません。また、気に入らないからと言って、お取り替えもできません。もちろん、お宅を逃げ出したりしたとしても、うちで責任は負えません。一期一会の、自己責任ということでお願いします。ただ、もちろん何か分からないことがあったら、いくらでもサポートはさせていただきます」
「あの、それはあんまりじゃないですか。返品もできない、保証もしないって、せめて一年ぐらい保証期間とか無いんですか」
「猫は、家電品じゃないんです。命なんです」
「でも、それは建前でしょ。はじめはタダで渡すなんて言って、後であれやこれや、お金がかかりますって、そんなの困ります。第一、お宅はどうやって利益出してるんですか」いかにも、こちらがあくどい商売をしているかのように、言ってのけた。
 有香は、少しも感情を出さなかった。出してたまるか、と思った。それどころか、にっこり笑って見せさえした。
「でしたら、何も無理してお飼いになること、ありませんよ」大きく微笑んで、「どうかお引き取り下さい」
「ママ……」娘が拗ねた声を出した。
「いいの、ママは猫嫌いだけど、どうせ飼うなら、大きなペットショップで買いましょう。こんなとこで、タダで貰うなんて」と言いかけて、取ってつけたように「申し訳ありませんからね」と付け加えた。

 カランカラン、とドアチャイムの音をさせて母娘が出ていった。
 大本が、テーブルを片付けに来た。
「店長、あれはひどかったですよね」憤慨していた。
「ああいう人、多いんです。生き物飼ったことがないんでしょうね、あのお母さんは」
「ピーチ、また嫁ぎ損ねちゃいましたね。もう、貰いに来た猫を見もしないなんて」
「ピーチよりね、あの人達が、これからペットショップで買う猫のほうが心配よ」ため息。「また一匹、野良が増えるんでなければいいけど」

 営業時間が終わり、大本はカフェの片付け、有香は猫たちの世話をした。
 入り口のドアを閉める時、二人は猫たちにお休みを言った。
 有香は家路へと急いだ。一匹、お腹がゆるい猫がいたのを思い出したのだった。
 冬の夜空、星座たちが彼女へと、猫の挨拶のような瞬きを繰り返していた。






プロフィール

髭熊船長

Author:髭熊船長
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