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「Butterfly」



 男は乾ききっていた。
 赤茶けた大地はどこまでも広がり、砂埃を巻き上げている。
 無慈悲な太陽が頭上から照りつけまるで巨大なオーブンの中のようだった。
 舌は口の中でボロ雑巾と化し、膨れ上がっていた。

 脚を引きずりながら、砂漠地帯を歩く男。
 小高い岩場が続き、残り少ない体力を搾り取られる。
 路傍の草を歯噛んだり、石ころをしゃぶったりするのも、もう限界だった。
 乾いた眼球を、砂が洗った。

 ついに、大きな岩の陰にある日影に逃げ込んだ。
 もう一歩も歩けなかった。
 こんなところで俺は死ぬのか。こんな遠くの、どことも知れぬ場所で。
 男は何の感慨もわかなかった。

 いつか、眠り込んでしまっていた。
 あたりは真っ赤だった。夕暮れ。
 軋む体を起こし、今目の前に現れた奇妙なものを、見定めようとした。
 それは大きな蝶だった。 

 蝶は、ひらひらと舞い、男を誘っていた。
 もう、住処に帰ろうとしているらしい。
 そこにはきっと水があるのではないか。少なくとも植物はありそうだ。
 男は、憑かれたように立ち上がった。

 美しい蝶は、羽を広げて遊よくしていた。
 その後を、男が歩いていく。
 やがて蝶の行く手に大きな森が現れそこから湿気を含んだ風が吹いてきた。
 こんな不思議なオアシスは、見たことがなかった。

 森の中へ分け入ると、時が止まった。
 今が昼なのか夜なのかも分からなくなった。
 下草を分けて男は歩み続け、葉の陰に消えては現れる蝶を追っていった。
 水音が聞こえたような気がした。

 森が開け、小さな湖沼が現れた。
 そこには、無数の蝶たちが、舞い狂っていた。
 男は、物も言えずに水辺に倒れこみ、口をつけて澄んだ水を飲み続けた。
 水は冷たく、甘かった。

 喉を潤した後、しばらく眠った。
 目が覚めたら、今度は空腹に襲われた。
 しかし到底、わずかな手持ちの非常食は、喉を通りそうもなかった。
 男は、赤とオレンジに彩られた木の実を見つけた。

 森の中を歩いて行く男。
 いつしか夜は明けていたらしい。
 蝶がまた現れた。男は後をついて行った。自分でも理由はわからない。
 前方が明るくなってきた。

 不意に広々とした場所に出た。
 森を抜けたらしい。草原が拡がっていた。
 砂漠地帯から抜け出たのだろうか……いや、そんなはずはない。
 空は穏やかに、青々と晴れ渡っていた。

 そこへ信じがたいことが起こった。
 子供の拳ほどの雹が降ってきたのだ。
 慌てて、森へと駆け戻る男。木陰に逃げこんで、振り返った。
 雹の白と空の青の間に美しい虹が。

 ここは極楽だろうか。
 なんて、なんて美しいんだ。
 罪から逃げるように、己から逃げるようにしてやってきた、この辺境の地。
 その果てに、彩光無限の光景が待っていようとは。


 


 男の身体に蝶が停まり、羽をひらひらと動かしていた。
 長い長い眠りから、未だ醒めることなく。
 男は植物と呼ばれ、白い布にくるまれていた。
 身体から無数の管が伸び、電極が張り付いている。
 罪人であっても、法が死を命ぜぬ限り、男は生かされていた。
 生の世界と切り離されたまま。
 男がどんな夢を見ているか、誰にもわかるはずはなかった。
 どこからか入ってきた、見慣れぬ大きな蝶は、ふっと男の身体を離れ、どこかへ飛んでいってしまった。












「TAKE ME TAKE ME」

 俺はいつも身軽な生活を心掛けている。
 だから荷造りは素早く終わった。
 表に止めたレンタカーのミニバンには、家財道具一式が詰め込まれ、後はこのバッグだけだ。だから、俺はそれを手に、最後に部屋の中を見回して、ウィークリーマンションの部屋を出た。
 ドアの鍵を閉めた。と、その手をつかむ者がいた。
 俺は驚愕し、固まってしまった。マズい、見つかったか?

 俺が驚いたのには理由がある。つまり、俺の仕事が仕事だからだ。
 俺は結婚詐欺師だ。これでもプロのつもりだ。
 世の中には、結婚願望が強く、なのに寂しい生活を送っている女性がたくさんいる。
 俺は彼女たちに、夢を売っているのだ。
 彼女が思い描く結婚相手になりきり、しかも理想像とは少しだけずらして見せ(ここがコツだ)、現実感を醸しだす。そう、本当に百%理想通りになんて出来っこないし、出来たとしたらむしろ相手は引いてしまうだろう。怪しく見えてしまうからだ。
 彼女たちは、自分の欲求や希望を満たしたって、それだけでは満足しやしない。
 「自分が相手の役に立っている。二人は支えあっている。この人のそばにいられるのはあたしだけだ」……この気持こそが、彼女らを、どんなエステよりも美しく輝かせるのだった。
 そして、彼女は心を、俺は財布を満たして、夢は醒める。
 彼女は、少しばかり預金残高は減ったかも知れないが、魅力はむしろ倍増した。しかもちょっとばかり傷心だ。すぐにも誠実なイイ男に巡り会えるはずだ。と、思う。知らないけど。

 そして今日も、夢の結婚相手役を降板し、仮の住まいから消え失せようとしているところだった。ミチコに見つかったら、ちょっと面倒臭いことになる。
 と、思ってるところへ、いきなり手首を掴まれたのである。悲鳴をあげなかったのを褒めてもらいたい。
 俺はゆっくりと振り向いた。そこには女が立っていた。だが、記憶を探るまでもなく、その女は、俺の過去の取引相手の誰とも違っていた。
 目の覚めるような美少女だったのだ。モデル的な感じの細いスタイル、長い手足、前髪を目の上で切りそろえた漆黒のロングストレートヘア。
 俺を必要とするような女性たちとは、こう言っちゃなんだがまるでタイプが違う。
「すいません、ちょっとお願いがあります」その女は、息を切らしながら言った。「乱暴な男に追いかけられているんです。かくまってくれませんか」
「え? 彼氏かなんか?」いいから手を離してくれ。
「そうなんです、今日はまた何かキメてきたみたいで、訳が分からなくなってて、怖いんです」ペコペコ頭を下げながら、「あの、部屋に入れてもらえませんか」
 参ったな。「いや、僕は今この部屋を出て、他に引っ越すところなんですよ」掴まれた手を振りほどきながら俺は言った。「警察に行ったらどうです?」
「あ、警察ですか。でも、あいつ、今度捕まったら実刑食らうって。えとあの、一緒に行ってもらえますか?」混乱しきった口調だった。
 警察。それはまずい。俺が。……仕方ない。喧嘩沙汰は苦手だし。
「じゃあ、僕の車で、逃げますか?」ついに口走ってしまった。われながら、フェミニストすぎる。

 夜の街を走りながら、女に行先を尋ねたが、特に思い当たる場所はないようだった。
 考えさせておいて、俺は自分の仕事を続けた。
 まず、目立たないところにあるコンテナ式の貸し倉庫へ。そこには、衣装や装飾品、その他なんでも詰め込んでいた。自分で買った物、女性に頂いた物が、きちんと整理されておいてある。
 車の中の、とりあえずいらないものを下ろして収納し、今回の役の衣装も、クリーニング屋から帰ってきた状態のまま、全部しまった。
 いま着ている服を脱いでランドリーバッグに入れ、新たに引っ張り出したスーツを身につけた。いくつか着替えを出してトランクに詰め、倉庫の鍵を掛けた。
 女はじっと助手席に座って待っていた。
 服を着替えて戻ってきた俺を見ても、何も言わなかった。

 さて、どうしようか。
 流れる水銀灯。アーク灯。揺れるテールランプ。
 闇の中を走りながら、俺は考えていた。
 とにかく、何も言ってくれないんじゃどうしようもない。
 と、女がそっと俺の方に頭をもたせかけてきた。
 ……たまには、俺が夢を見させてもらうか。

 自腹を切る時には、俺は見栄をはらない主義だ。
 俺は車を、郊外のラブホに突っ込んだ。
 女は、俺の手をぎゅっと握ってきた。

 部屋にあがり、女にシャワーを勧めた。
「いえ、私は後で……」そう女がつぶやいた。
 遠慮無く、先に入らせてもらうことにした。信用しないわけではないが、車のキーと財布、携帯は、洗面台の下の、ゴミ箱の中にあるビニール袋にくるんで浴室へ持って入った。これは一種の職業病である。

 俺は心地よいシャワーを浴びながら、疑念を感じていた。だってそうではないか。確か、彼女は危ない彼氏から逃げるためについてきたはずだ。なのに、なぜ、俺と寝ようとするのか。一宿一飯のオンギか?
 なにか裏があるに違いない、と思った。ああ、欲望にまかせて押し倒さなくてよかった。
 美人局か、あるいはなにか交換条件でも出すつもりか。
 まあいい。いざとなれば逃げるとしよう。
 暑苦しかったがとりあえず最低限の服を身につけて、更衣室兼洗面所を出た。
 そこに、大勢の女性たちがいた。
「え?」
 ドアの脇にいた、あの嘘つき女が、俺に体当りしてなにか熱いものを押し付けた。
 スタンガン。
 

 目が覚めたら、そこは地獄だった。
 ミチコをはじめ、ケイ、メグ、ユキ、アイ、ユカリ、モエ、その他大勢。俺のかつての顧客たちが、一同に会していた。
 あの、長い髪の女は、なんだったんだ。俺は目で探した。
「ああ、あの人は、お仕置きやさんなの」ミチコが言った。「探偵事務所の人でね、あんたみたいな女の敵をやっつける手助けをしてくれたのね。ここにいるみんなを探して集めてくれたのもあの人」
 アイが言葉を継いだ。「あんた、あんなところに倉庫借りてたんだ。あたしらからだまし取ったもの、全部あそこにあるんでしょう。鍵貰ってくからね、覚悟して」
「どうするつもりだ」
「さあ、どうしようかなあ。夜はまだこれからだし、ゆっくりお仕置きを考えるよ」ケイが薄ら笑いを浮かべて言った。
 俺は、必死で首を回した。体がしびれてまだ動かない。
 モエがロープをしごきながらやってきた。
 その向こうに、長い髪の女がいた。立ち去ろうとしていた。
「待ってくれ!」俺はかすれた声で叫んだ。「俺を、俺を連れていってくれ!」



「セラミックガール」



 青少年勤労センターという施設がある。働く若者の、コミュニケーションやスポーツ、サークル活動などを支援する公的施設である。
 浩司はその施設の二階の会議室で、重苦しい空気の中ミーティングに顔を出していた。
 彼の所属する、高校生が中心になったアマチュア劇団で、ちょっとした問題が起こったのだ。
 ホワイトボード前の会議用テーブルで、泣かないはずのあの娘が泣いていた。

 その劇団は、地元の各校演劇部の有志たちが、学校の課外活動という枠を超えて、自由に芝居がやりたいとの思いで立ち上げたものだった。
 何かと規制があったり、コンクールに参加させられたりで、本当にやりたいことができない、と彼らは考えた。
 だが、実際に一から全部自分たちの手で立ち上げ、運営してみると、何一つすんなりとはいかないのだった。大人たちの助けがあってこそ出来ていたことが、いかに多かったか思い知らされたのである。
 彼も、役者の真似事をしていただけで、まず練習場所をどこにするか、どうやって集まるかなどという仕事については、大して役に立たなかった。
 劇団には高校生ながらカリスマ的なリーダーがいて、彼の人望で(特に女の子が)集まったようなものだった。だが当のリーダー氏も、実務的なことはいささか苦手なようであった。

 そんな時。
 ご多分にもれずリーダー氏に憧れて入ってきた、ある女子高生が、極めて実務に有能であることが分かったのだった。
 聖美という名のその女子高生は、精神的にタフで、明るく、どんな大人とも対等に渡り合った。
 まず、プロ劇団に見学に行った聖美は、自分の仕事が「制作」と呼ばれるものであることを知った。
 それから、練習場所として青少年勤労センターを見つけてきた。そこは、18歳以上で独身の勤労青年が団体登録すれば、夕方からでも無料で使えるのだった。
 聖美はすぐさま自分の兄を連れていって、名目上の主催者とし、劇団の登録に成功した。
 お兄さんは無論、一度も練習には来なかった。
 聖美は怪訝な眼を向けるセンターのスタッフに、平気な顔で、ニコニコと挨拶した。

 劇団の中で小競り合いや諍いがあっても、へっちゃらだった。彼女の手にかかれば何事も解決し、でなければ一喝されて終りになった。
 リーダー氏はもちろん、劇団員たちは彼女の迫力と実力に感服した。
 何かのドラマのセリフではないが、制作というのは「劇団のお母さん」みたいなものなのだった。
 彼女は、日々の肉体訓練と発声練習の合間を縫って、劇団としての枠組みを着々と作り上げていった。まるで鋼……いや、特殊なファインセラミックスで出来ているかのようにタフであった。

 やがて、脚本が会議で決まると、躊躇なく出版社経由で劇作家に手紙を書き、上演許可を求めた。
 噂によると、電話をかけてきた劇作家と堂々渡り合い、脚本使用料を無料にしてもらったらしい。

 さっそくミーティングを開いて、劇団内の役割分担を明確にした。
「で、私はこの『制作』という仕事をします。えっと、手伝いに由紀ちゃんと圭介くん、お願いします。今日、渡しはこの本を持って帰って、家のお父さんの事務所でコピーします。明後日の練習日までに人数分製本しますので二人は私んちで手伝ってください」
「はい」
「よろしくな」リーダー氏がにっこりしながら、聖美に片手拝みした。

 で、このミーティングになったんだ、と彼は物思いから覚めた。 
 リーダー氏はいい奴だし、劇団と関係なく以前からの友人でもある。ただ、こういう時はあまり頼りにならなかった。
 実は聖美のお父さんというのが、弁護士だったらしい。おまけに、市の青少年育成ナンチャラ委員会みたいなところの理事をしていたらしい。
 弁護士事務所で娘が脚本をコピーしているところへやって来て、何の気なしに脚本を手にとったのだそうだ。その脚本にはいわゆる「性描写」めいた部分があった。
 で、その弁護士先生は、娘を連れてこの青少年センターへと乗り込んできた、というわけだった。
「私は劇団活動自体は素晴らしいと思います。ただ、この箇所だけは削除すべきと思う。ほとんどの方は未成年なんですから、問題になってからでは遅いと思うんです」
 とか何とか言って、去っていった。後は俺達の良識に任せる、というわけだ。
 ヘドが出る。ああいう言い草には。
 浩司が立ち上がって、発言した。
「俺らはそもそもああいうのが嫌で劇団作ったんだよな、確か。別に関係ねーじゃん。やっちゃえばいいんだ」
 団員の大多数が頷いた。
「いや、でもそこまで大事なシーンでもないし、未成年のメンバー、特に高校一、二年の子らは、やっぱ学校とトラブったらまずいって。俺そんな芝居の事とか分かんねーけど、そんな大げさに考えることでもなくね?」こう言ったのは、大道具の聡だ。この意見に、みんなが不安そうな顔になった。
 浩司はヤバイ、と思った。この空気、何となく妥協するとき特有の曖昧な自己正当化の空気だ。
 負けだな、と浩司は思った。あのおっさんより、こいつらに負けた。浩司は身体が震え始めた。人は真剣に怒ると、ほんとうに体が震えるのだな。ちらっとそう思った。
 聖美は、ずっと顔を伏せたまま、耳を真っ赤に染めて泣いていた。
 リーダー氏が、すまん、という顔を浩司に向けて、ゆっくり立ち上がった。

 帰り道、浩司の後から、聖美が追ってきた。
「浩司くん、ごめんね、ごめんね」そう言い募った。
「いや、別にあんたのせいじゃないって。……あのヘタレ共に腹立ててんだ。あんたのお父さんのさ、立場に立ってみれば無理ないしな」
「うん、ごめん」
「まあ、あのシーン、カットするならする、変えるなら変えるでさ、また手紙書かないとな」
「あ、そうだね、うん」
 沈黙。
「余計なこと言っていい?」おもむろに浩司が言った。
「なに?」
「あいつに好きなら好きって言いなよ。早くしないとライバル多いよ」
「もう! ほんとに余計だよ!」そう言って、浩司の背中をバーンと叩いた。

 他の女子のグループに加わった彼女を見ながら、浩司はさっきのことを思い出していた。
 力いっぱい、全力で涙を止めようとしていたあの顔。
 あのリーダーのヤツの前では、出来るなら絶対あんなトラブルを持ち込みたくなかったし、泣き顔を見せたくもなかったに違いない。
 しかし、その自尊心の支えを失ったとき、彼女の心は陶磁器のように壊れたのだった。
 子供のような顔で、手放しで泣いていた。

 やべ。……浩司は思った。ため息をついて、駅への道を急いだ。心のなかでつぶやきながら。

 やべーよなー。まいったな。どうしよう。やべーなー……。

 満月が彼の影を、冷たい歩道に落としていた。




「edge〈⊿-mix〉」





 少し時間を戻そう。

 カシノユカは黒電話を切った後、速際警部補にこう言った。
「少しお話があります」
「なんだ?」
「この事件、ちょっと心あたりがあるんです。でもそれは後でお話しします。
 さっきのお話ですが、二通りのいきさつが考えられると思います。
 ひとつは、被害者の方の連れの女性がなにか凶器になるもの、……例えば編み棒とかですね、そういったものを持っていて、とっさに刺してしまった場合。泥酔していながら、自分で凶器を隠したか、または、第三者が持ち去ったか、ですよね」
「そうだな」
「しかしどちらもありそうにない、というか不可能でしょう。凶器を隠しながら、手は血だらけのまま、なんて。血だらけの手で平然としてるほど酔っているなら、凶器を隠すことは無理でしょうし、凶器を隠すだけの冷静さがあれば、手くらい洗うか拭くかしそうなものです。
 もし第三者がうっかり持ち去ったとするなら、なぜ騒ぎもせず、警察に証言もせずその第三者はいなくなってしまったのか? 第一、なぜそんなことをしたのか? 全く筋が通りません」
「なにか事情があったのかも知れないよ」
「それは否定しませんが、可能性は低いです。無理がある、と思います」ちょっと口ごもって、「それよりも……その第三者が犯人だとしたらどうでしょう」
「さっき、それは君自身が否定したよ」
「私が否定したのは、『その第三者がよそから侵入して、犯行後ここから逃走した』という仮説だけです。
 いいですか、なぜここで犯行を行わなければならなかったのか? それは、犯人にとって、ここ以外に被害者と接触し、疑われず、人に罪をかぶせることが出来る場所がなかったからです。
 ここでなら、被害者とその連れに、薬を盛って泥酔させることができた。
 ここでなら、犯行現場に自由に出入りして、誰からも怪しまれずに済んだ。
 ここでなら、凶器を隠し、また後で処分する事が出来る、と考えた。
 必然性があった、というわけです。
 そこでお願いですが、関係者全員にこう言っていただけませんか。
『現場保全のために今日からここを閉鎖させていただきます。お店の関係者は、必要なものを持って帰っていただいて結構だけれど、手荷物の確認をさせてもらいます』と。『明日から徹底的に、凶器を探します』とも言ってください。
 そして、張番の方に、誰かが忘れ物を取りに来たら、中に通して結構。一応付き添って、中まで連れてくるように、と」

 深夜になって、バイト従業員の一人がやってきた。
 忘れ物をした、レジの横に携帯を忘れたのだが、明日の朝どうしても必要なので、取りに行かせてほしい、と。
 警官は一応渋って見せてから、中についてきた。従業員は、勝手知ったる店内を、先に立って進んだ。
 レジの横に置かれた携帯をとり、警官が見てないのを確認して、何かを素早くポケットに入れた。
 合図があって、店の照明が明々と付き、速際警部補が素早く従業員を取り押さえて言った。
「今隠したそれを、見せていただけますか」
 周りを警官が取り囲み、従業員がもがいたが、婦警が手錠を掛けると、ぐったりと力を抜いた。婦警が手袋をした手でポケットから何かを掴み出した。
 それは、古めかしい伝票差しであった。
 従業員……昨晩カシノユカの部屋に行き、今夜事件を「発見」して騒いだ女が、唇をかんでうつむいた。
 ふとカシノユカに気がつくと、女がののしった。
「占い師が警察にチクッたんだ、いいのそんなことして」
「なにそれ!」ノッティーナさんが言い返した。
「何も言ってませんよ、昨日あなたがウチに来たことも。あなたはここに来たことで、自ら告白したんです、自分がやりましたって」悲しげに、カシノユカはそう言った。

「私は始めから、凶器は何であるか、どこへ隠したかは犯人に教えてもらえばいいと思っていたので、考えていませんでした。
 ただ、あの女性が昨日うちに来た時、気になることを言っていたので、心配してこの店に来てみたわけで、そこへこの事件です。すぐにあの女性の顔が浮かびました。すると、あの人が発見者だっていうでしょう?
 ちょっとアンフェアでしたね、始めから犯人は分かっていたんですから。
 あの女性は、まず飲み物に精神安定剤か睡眠導入剤を混ぜて、二人の意識を朦朧とさせました。もしかしたら男性のほうは寝ていたかも知れません。薬品のことは血液を調べればおわかりになるはずですが。
 そして、まるで注文を受けるような素振りで部屋へ入って行き、あの伝票差しで刺したんです。
 あれだとそう大きな傷はできませんから、返り血も浴びませんでした。
 その後、凶器をきれいに拭いてレジの横に戻しておきました。ご丁寧に伝票を差して。
 その僅かな隙、レジの横に伝票差しがない状態の時に、誰かお客が帰ったりすれば、危うかったけれども、素早く仕事をしてうまくいったんです。ここが一番際どいところでした。
 それから、十分ほど待って、もう確実に死んだろうと思うタイミングで再び部屋に入って行きました。
 多分犯人は驚いたことでしょう、泥酔状態の連れの女性が、彼の出血を止めようとして、手を真っ赤にしていたのですから。好都合なことにね。
 脈を見るとすでに止まっている、そこで犯人は、悲鳴を上げたんです」
「三角関係のもつれだなんて、もう陳腐で呆れ返るくらいだが、いつも口論をしていた彼女が、必死に血を止めて助けようとした、ってところが救いだな」速際警部補は、ため息をついた。
「伝票差しで刺す、なんて、従業員しか思いつかないですね。ま、遅かれ早かれ鑑識の方で見つけてましたよ」鼻息荒く、松田刑事がいきまいた。「ガイシャの周辺を洗うなり、携帯を調べるなりすれば、あの女もすぐ浮かんだでしょうし」余計なお世話だったと言わんばかりだ。
「ところで、あれ、もう少し貸しといてくれ」と言って、速際がカシノユカに何か手渡した。それはあの伝票差しの預かり票だった。「あれも証拠なんでな」
「本当の凶器も、ちゃんと保管してるんでしょう? あれに、血液反応と、おそらく血液の着いた指紋が残ってるはずですから」
「うん、本物をエサにするわけにはいかないからね、公判の時に弁護側に突っ込まれるし」
 ふん、考えてなかったと言いながら、きっちり凶器も見抜いていたか。相変わらずこの占い師、抜け目がないな。速際警部補は苦笑した。

 帰り際、カシノユカが振り返って、速際を見た。
「彼女、もし落ち着いたら、ゆっくり話したいんですが」
「山下祐希かね、彼女なら病院に……」
「いえ、もう一人の女性です。内田慶太さんのもう一人の彼女。私のお客ですから」
 そう言って、静かに帰っていった。
 その後を、忠犬のようなノッティーナさんが付いて行くのだった。



「edge-extended mix-」



 事件の前日。
 占い師カシノユカの部屋に、女性客が訪れていた。
 思いつめた様子のその女性は、持っていた地味なバッグをつぶさんばかりに握り締め、テーブルの一点を見つめていた。
「彼と決着をつけたいのだが、その前に占ってほしい」という依頼であった。
「決着とはなんですか?」と、カシノユカが尋ねた。
「別れるか、付き合うか、はっきりしてもらうということです」その女性客が、つぶやくように言う。「あたし、彼が他の女と一緒にいるところを見たんです。一度だけじゃなくって何度も何度も。あたしといるときは上の空のくせに、その女には、やたらに機嫌とってて、別人みたいだった」
「ええ」
「昨日、あたしついに我慢できなくなって、彼に言ったんです。『あなたが先に死ぬのは嫌だ。どっちかが先に死ぬなんてやだ。どうせなら一緒に死ぬ』って。あたし、前からそんな事ばかり考えてて。でも、彼はそうだね、なんて聞き流すんです」
「いきなり過ぎたんじゃないですか? 彼も困ったかも知れませんよ」
「いいんです。とにかく、あたしが真剣だって、彼に分かってもらいたいんです。ちゃんと話聞いて欲しいんです。もし、あたしとの事、軽い気持ちで遊んでいるんだったら……」と言い募り、グッと口を閉じた。
 少し異常なほど、思いつめているようだった。
 カシノユカは、一応形ばかり占って、過激な行動に出ないよう促したつもりだった。
 だが、どうしても胸騒ぎがしてならず、彼女がいるはずのこの店にやってきたのだった。

 事情聴取があらかた終わり、鑑識課員も撤収し始めていた。
 座席周辺はもちろん、トイレや、被疑者山下祐希が入るはずのないキッチンの隅々まで、凶器を探したが、発見できなかった。
 
 この居酒屋は、古民家風の造りで、店内の装飾品やレジ回りに通路、トイレ、座席、照明、食器にいたるまで古めかしい物で統一していた。
 電話まで黒電話にしているほどだった。
 携帯を持たないカシノユカは、その黒電話のダイヤルを回していたが、長い爪のせいでやりにくそうだった。
 電話の向こうの人と言葉を交わし、カシノユカが電話を切った。チン、と涼しい音がした。
「生え際さん」
「速際だ」
「はやぎわさん、ちょっとお話があります」





 無人になった居酒屋の暗がり。
 明け方近くになって、通用口からガチャガチャと物音がした。
「おいまさか……」ヒソヒソ声で速際警部補が言う。
「しっ。もうちょっと待ってください」
 カシノユカがささやいた。
 店内には松田刑事を始めとして警官が何名か、潜んでいるのだった。
 カシノユカの後ろにいる、占い師仲間のノッティーナことオオモトアヤノが、ユカの服をぎゅっと掴んで、
「うまくいきますかね? 一応言われたものは持ってきましたが」と小声で言った。
「もうちょっと……」と言って、カシノユカは、暗がりをじっと睨んでいた。
 非常口サインの光がその顔に当たって、陰影を見せていた。
 何者かの足音と衣擦れの音が近づいてきた。







「edge〈⊿-mix〉」につづく……。





プロフィール

髭熊船長

Author:髭熊船長
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